[ひろゆきYoutube] 私たちが嘘を嘘を見抜くためにはどのようなことに気をつければ良いでしょうか→無理です。大衆に流されず自分の意見を持つことが大事
お悩み:私たちが嘘を嘘を見抜くためにはどのようなことに気をつければ良いでしょうか
ドイツの某独裁者がユダヤ人を迫害するきっかけになったのは、ユダヤ人にある世界征服マニュアルとされる書を読んだことで、その内容があまりにもリアルだったので「ダメだこいつら早く何とかしないと」と思ったことらしいです。
で、結局彼は嘘うそと見ることができなかった。
非常に悪意のある情報が流れた場合、私たちが嘘を嘘を見抜くためにはどのようなことに気をつければ良いでしょうか
ひろゆき:無理です。大衆に流されず自分の意見を持つことが大事
無理です。
結局、事実なのかま真実なのか嘘なのかというのを人間は判断することができない人が一定の割合でいるっていうことに気がするんですよね。
例えば、コロナのワクチンとかも怖がって打たない人もいるし、ワクチンっていう世界中ではわりと打ってるけど、日本では打つことがまだ義務化されてないみたいなワクチンがあったりとかで。
その科学的にこういう副作用がありますよ、でもこれだけの人が助かってますよ、これだけの人が使ってるますよ、十万人でたまたまその副作用だったりとか、たまたま他の病気が併発してしまう人っていうのは存在するので、そこでワクチンを打ったおかげで死んでしまった人っていうのもいたりするんですよね。
でもそうすると、例えば八十歳の人に、このようなワクチンを打ちましたって言っても。、八十歳の人に数万人ぐらい打ったら、その中の数十人は寿命で死ぬじゃないですか。
そもそもは八十代の人って、毎年毎年何か死ぬのでワクチンを打った死んだ人はソレはいるよねって話なんだけど。
「この人たちはワクチンのせいで死んだんだ!」とか言って大騒ぎし合い出す人もいるんですよ。
なので、そのワクチンを疑う前に「そもそも八十代の人は死ぬよね」と。
んで、ワクチンを打った結果、八十代で死ぬ人がいっぱい増えましたってだったらそりゃまずいよね、なんですけど、ワクチンを打って死んだ人がいるっていう事実だけで、ワクチンは危険だみたいなことを言い出しちゃったりするっていうのが、まぁ二十一世紀になってもいるんですよ。
なので、こう人間て頭よくないよねっていうのはあんまり変わんないじゃないかなと思ってたりします。
で、じゃそのユダヤ人が世界を悪くしてるだとかっていうのを信じないようにするにはどうすればいいかっていうと。あの大衆に流されないっていうのが多分正解なんじゃないかなと思いますよね。
ドイツの人たちが、何でユダヤ人迫害するのを賛成してしまったかって言うと、「あれこれおかしいじゃね」って思ったんだけど、多くの人が賛成しているから「まいっか」っていうので、そのちょっと心の中にわだかまりがあったとしても反対しなかったっていうのですよね。
なので、例えば「オタクっていうのは気持ち悪いから迫害していいよね」っていうので迫害が始まりましたと。
でも「別に僕オタクだから別にどうでもいい」と。
オタクが迫害されることで、そのうち「バイク乗りが迫害されました」と。
「あのバイクとかって何かワンワンはうるさいし、別に僕バイク乗らないからバイク乗りが迫害されるとか全然構わないす。」みたいなで、そのうちカメラをやったら取りたがる人とか迫害されますと。
「何かあのー電車の線路の中に入ってきて写真を撮るおかしな人とか居るからもう何かカメラ好きなやつとかマジいなくてよくね?」みたいな。
「俺、別にそんなでっかいカメラとか持たないし、スマホで十分だし」みたいなのでカメラ持ってる人が迫害されました、みたいな感じで、だんだん迫害される人っていうのが増えてきて、ある時「インターネット好きなやつとかまじ気持ち悪くね?」みたいになって、インターネットで人が捕まるみたいになるかもしれないので。っていう感じで。
結局のところ、そのどこかで違和感を感じても「自分は関係ないよね」ってなったとしても「これはちゃんと反対した方がいいよね」要は「みんながみんな賛成したとしても俺はこれ違うと思う」っていうのをちゃんと1人にしかいなかったとしても「反対のものは反対だって言わなきゃいけないよね」っていう。
そういう教育をドイツはやるようになったんですよ。
で。日本はわりとみんながみんなこっちが正しいよねってなってる時に流される人が多いので。
んで、ドイツと日本って昔同盟組んでたじゃないですか。
で、多分そこら辺のその性格が似てるんだと思いますよね。
要は細かいことにこだわるとか、環境的なヒーローかどうこうとかじゃなくて、みんなでじわじわとものを進めてこうとか、あとではみんなが同意してるだったらそこは何か一人がこう反対だと思ってもそこは黙ってようとか、みたいな。
ああいう価値観がわりと日本とドイツは似てると思うけど。
ま、それで同盟結んだって思うけどで、あれ良くないよねっていうのがそのドイツがナチスドイツっていうので、そのユダヤ人迫害した結果、教育の中でその決めたことだったりするんですよね。
で、フランスはわりと反発心の強い人が多いので、反発心が強いっていうのも大事だよねっていう。
ドイツは歴史もあるので。
アメリカの場合は、多くの人がいろいろアメリカに集まってきて、今は違うですけど昔はその何か困ったらアメリカに行けばいいじゃんみたいなので、世界中からの移民というのがアメリカに集まった時代があるですよ。
そのプロテスタントって言われる宗教の人たちで、何かあの時自分たちの国にいると迫害されるから、「もうみんなでアメリカ行こうぜ!」とか。
じゃあドイツで科学者やってたんだけど、これなんかドイツだともう迫害されるから、じゃあ俺アメリカ行って科学者やりゃあいいじゃんとかっていう感じで、わりとその各国の中で迫害されてる人とか、あんまり意味も知らない人が「じゃアメリカっていう新天地に行くわ」っていうのでアメリカに行きますと。
んで、そのアメリカの中では、いろんな考えの人とかで人数も凄い多くなっちゃったので、生き残るにはどうしたらいいかっていうと「自分独自のユニークさっていうのが必要だよね?」っていうのがあって。
なので、その教育として「みんなと違うことっていうのが重要だよね?」っていうそういう教育の仕方をするですよね。
なので「じゃこの本を読んだ感想を教えてください」みたいな授業があると、わりとなんか日本だと読書感想文的な、あのそつのない文章っていうのが凄いよねって言ったんですけど、アメリカの場合って、変わった意見・独自の意見っていうのが独自で面白いユニークだねっていうので評価されたりするんですよ。
なので「読書感想文、これが正解です」みたいな検証ってあんまりやらないですよね。
読書の感想に正解とかあるわけないじゃないですか。
だって、読書をしたことによってどう思うかって子供それぞれ違うですけど。
でも、なぜか日本の場合って読書の感想で読書感想文と悪い読書感想文を決めるですよ。
「その本読みました、面白くありませんでした」これはその子がそういう感性なんだからそれでいいじゃないですか。
でもなんか面白くありませんでした、だとまあ通らなくて。
ありきたりなあとがきに書いてありそうな文章を書くと、なぜか賞がもらえるみたいなっていう感じで。
あの僕はヘルマン・ヘッセの「車輪の下」がくそおもしろくねって話を何回かしたと思いますけど、はい